(アイキャッチ、広大な敷地にある日新館の一部風景)

 

皆様こんにちは、山中でございます。AO入試他、大学受験がスタートしております。現在、大学3年生となった我が家の長男君。3年生の間は、オンライン授業。キャンパスに行くことはありません。可哀そうなのが大学1年生の生徒たち。大学生となったのにキャンパスへは通えず。地方から上京した生徒の親御さん。生活費負担も大変ですね。バイトすら制限されていますから。そんなわけで今年の受験は地元志向だそうですよ。

 

さて、昨日までの2泊3日。福島県は会津地方を訪れました。第一の目的は、収穫したひまわりの種を『福島ひまわり里親プロジェクト』さんへお渡しすること。第二の目的は、幕末から明治にかけて、優秀な人材を搬出した会津藩校である日新館。日新館の生徒であり、戊辰戦争で自刃した少年たちの悲しい歴史。白虎隊のお墓参り。

 

春から夏にかけて、私たちのスタッフさんが大切に育てたひまわりから採れた種。再び福島ひまわりプロジェクトさんへ。このように全国から返されるひまわりの種から、障がいを持った方々の仕事が生まれます。オリンピックの聖火ランナーに選ばれている、ひまわりプロジェクト代表理事である半田さんへ。直接、種をお届けしました。

 

第一の目的を果たした後、会津藩校を忠実に再現した日新館へ。半田さんのご厚意で、日新館の職員の方が付きっきりでガイドをしたくださいました。江戸時代に、こんなに優れた学校が日本にあった。驚くばかり。明治維新後、急速に近代化を果たした日本。その背景には、全国で教育による人材育成を競った藩校制度にあるのは間違いないでしょう。

 

簡単にご紹介すると、10歳になると、素読所という現在の小学校みたいなところへ入学します。それまでの期間は、私塾等で読み書き算盤を習得してから。以前にもご紹介した『什のおきて』は、素読所へ入る前に礼式教育で躾けられています。かの有名な白虎隊の少年たちもここで学んでいる生徒でした。

 

この素読所。四等級の制度をとり、優秀者は飛び級も認められていました。11歳から礼法の修行。12歳から書学の修行。15歳からは弓、槍、刀の術を修行。11歳から行われる礼法では食事の作法から、父母への挨拶、太刀の受け渡し方他、なんと自刃の作法までも叩きこまれます。11歳の子どもに切腹の仕方を礼法として教える。衝撃でした。死を考えさせることにより、どう生きるべきか。深く考えて学ぶのだそうです。

 

日新館には日本初のプールと言われている池があり、ここでは映画撮影も行われています。坂の上の雲のもっくん等も、ここのプールで撮影。武道や体育以外にも数学、天文学、医学、神学、皇学、和学、茶道、雅学等、専門的な教えも行われました。

 

素読所を卒業すると、講釈所と呼ばれる現在の大学へ進みます。ただ進学が許される者には条件があり、五〇〇石以上の長男。成績、人物優秀な者だけが入学を許可されたそうです。講釈所では、学生の自主的研究を主として、学生同士の論議、討議が重視されていました。優秀な学生には幕府の学校への留学や、全国遊学の制度も用意されていたとか。今でいうアクティブラーニング。江戸時代から我が国では行われていた。これにも感動。

 

日本一の教育制度を誇った会津藩。戊辰戦争では薩長率いる西軍と戦います。会津の地も戦場になりました。主な兵は主要な戦地へ出陣。白虎隊などの少年兵は城内に置かれていました。しかし、戦局は悪くなるばかり、ついに殿様は白虎隊に出陣を命じます。

 

白虎隊士は戸の口原にて西軍と交戦。しかし、敵の軍事力に圧倒されて退き、飯盛山まで逃れます。そこで目にしたのは炎上する城下。その光景を見た20名の隊士。玉砕するか帰城するかで激論を交わしたそうです。最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるようなことがあれば、主君に対して大変申し訳なく、祖先に対しても申し訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにすべき。」

 

この決断にはじめて全員が同意し、一同列座。鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。

(飯盛山にある白虎隊自刃の地に刻まれた碑より抜粋)

 

後に、1名が蘇生。この事実が伝えられています。自刃した白虎隊士19名。14歳から17歳の少年でした。全員が日新館の現役学生。学徒出陣でした。

 

隊士が眠る墓前に線香を備えながら、複雑に思考が葛藤。歴史があり現在がある。ほんの150年間。日本も大きく変わっているようです。良いこともあれば、悪い部分もある。なにが正しいかどうかは、後の歴史が証明してくれますね。一先ず自分にできること。平和を誓ってまいりました。

 

会津日新館と飯盛山。お子さんと訪れてみると良いと思いますよ。